神社・古墳めぐり / 尾張の式内社めぐり / 黒田神社(籠守勝手神社)



式内社の「黒田神社」という神社は現在存在しないが、一宮市木曽川町黒田の「籠守勝手神社(こもりかってじんじゃ)」に比定されている。

黒田神社の所在地については、同地の天神社、白山社などに比定する説もあるが、籠守勝手神社が最有力のようだ。

【所在地】

籠守勝手神社は、一宮市木曽川町黒田字往還東東ノ切11、黒田の集落の北東端にある。

かつてはこの付近を鎌倉街道が通っていて、早くから街道の町であった。

【祭神】

黒田神社としての祭神は、未詳とすべきとされているが、籠守勝手神社の祭神は、瀬織津比咩命(せおりつひめみこと)、淀比咩命(よどひめみこと)とされている。

瀬織津比咩命は、「祓戸四神の一柱で災厄抜除の女神である。神名の名義は川の早瀬の穢れを清めるとある。 祓神や水神として知られるが、瀧の神・河の神でもある。その証拠に瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多い。」とうことで、ここも木曽川の近くに位置する。

淀比咩命は、神功皇后の妹。

【由緒】

「籠守勝手神社特殊神事御由緒」の石碑があって、神社の由緒などもそれによってわかる。

「御駕籠祭

第17代履仲天皇は、大泊瀬幼武王(後の雄略天皇)を世嗣とされた後市辺押盤皇子(天皇の長子)を殊の外お慈しみになり、あとにお立てしようと考えられたので大泊瀬幼武王はひどくこれを憎み近江国蚊屋野原で鹿狩りする事にかこつけて遂に市辺押盤皇子を謀殺してしまわれました。皇子には億計王(後の仁賢天皇)弘計王(後の顕宗天皇)のニ皇子がありましたがいち早く知らせを受けられ自分たちにも危害の及ぶのを恐れ難を逃れる為、尾張一宮真清田へ向われる途中黒田の郷に鎮まります黒田明神の森にお駕籠を止められお駕籠のままお泊りになりました。折しも陰暦8月15日望月の夜の事とて村人より親切な里芋の饗応を受けられ大変喜ばれた御ニ方はそのお礼に芋の葉の露を黒田明神に奉献せられ村人等の幸福を祈られて夜明けを待たずにお立ちになりました。この古事を記念して二台のお駕籠にお芋を供え祭が斉行せられます。 尚現在神社に参籠する人は無くなりましたが、過去には願い事、悩み事の有る人が勝手に参籠し心願すれば必ず成就するとの習わしにより後の世に黒田明神を籠守勝手神社と尊称せられる様になりました。」

「景雲祭(10月20日)

 御祭神の淀比咩命(神功皇后の妹)が三韓出兵で大功を立てられた事によって称徳天皇は景雲年間の10月20日に官幣を奉られました。以来、御輿に淀比咩様をお迎えしてお籠守様から熊野社へ渡御せられる傜になった神事で、厄男が奉仕し厄祓いと五穀の豊饒を祈念して祭が斉行せられます。」

「稲種祭(陰暦3月上丁日)

 此の日、稲籾・鮮魚・食塩を供え、其の稲籾を氏子一同に分け与え、其の歳の種子として各戸稲代田に蒔き豊饒を祈念する祭でした。」


億計王・弘計王のニ皇子が難を逃れる為、尾張一宮真清田へ向われる途中黒田の郷に鎮まります黒田明神の森にお駕籠を止められお駕籠のままお泊りになりました、ということだが、日本書紀では、初め丹波国与謝郡へ、そして播磨国明石へ逃げたことになっていて、ここの伝承は、公式記録には残されなかったようだ。



【社殿】


社殿は拝殿、渡り殿、祭文殿、本殿と続き、南向きに建つ。


本殿は、流造りで千木・鰹木はない。


拝殿屋根は銅葺きで、鬼瓦には何かわからない紋がつく。


拝殿の垂れ幕には「五七桐」の紋。


拝殿の蟇股.


祭文殿の鬼瓦には、菊の紋がつく。


本殿の側面には、瀬織津比咩命にふさわしい滝と雲の飾りがつく。


【参拝記】

2011年1月30日、一宮の北部地域にある式内社や八剣神社を訪ねて歩いた時の続きで、「若栗神社」から西へ2kmほど、東海北陸自動車道の高架の近くに、「八劔神社」があり、そこから西へ2kmぐらいのところに「籠守勝手神社」がある。

鳥居をくぐると、石の太鼓橋があり、その先に木製の透かし塀がある。


境内には「神馬」も祀られている。


神像などが、一宮市の文化財に指定されている。


境内社は、見つからなかった。


次に、式内社の「穴太部神社(あなほべじんじゃ)」に比定されている「加茂神社」へ向かった。